礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2025.4.27 召天者記念礼拝 「憐れみの主に、会うその時」森崇牧師【ルカによる福音書 7章11~17節】(新共同訳 新約P.115)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 エフェソの信徒への手紙 5章13~14節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生24番「歌え 歌え キリストの愛を」
主の祈り
献金感謝
聖書 ルカによる福音書 7章11~17節
特別賛美 「主よ み手をのべたまえ」
宣教 「憐れみの主に、会うその時」 森 崇牧師
祈祷
賛美 讃美歌21 575番「球根の中には」
頌栄 新生673番「救い主 み子と」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- イースターおめでとうございます。本日は召天者記念礼拝です。天の御国へと凱旋された家族や信仰の先達を覚えて共に礼拝をささげしましょう。復活の主の力が共にありますように。
死者の復活の希望は旧約聖書のダニエル書において見いだされます。「地の塵となって眠る人々の中から多くの者が目覚める。ある者は永遠の命へと…悟りある者たちは大空の光のように輝き、多くの人々を義に導いた者たちは星のようにとこしえに光り輝く。」(ダニ12:2)暗黒の時代にあって苦難を被ってきた信仰者たちは、死んで終わりなのではなく、また再び神がいのちを備え、天にある霊的ないのちを受け継ぐものとされる希望を預言者ダニエルの言葉を通して見出しました。この「復活の神の約束」は来る時に実現します。
本日の聖書個所はやもめの息子を生き返らせる話です。ガリラヤ湖のイエスの故郷ナザレから南に向かったナインという町に弟子たちとイエスに従う群衆(10:1,19:37)が来ました。その時、葬儀に付き添う大勢の街の人が町の門から出てきました。葬りをするために町の外へと棺を運んでいたのです。この喪主はやもめの母親であり、亡くなったのは一人息子でした。イエスはこの時「主」と記されます。「主は羊飼い。私には乏しいことがない」(詩編23:1)とあるように、命の導き手である主がその母親を見て憐れに思います。「憐れむ」(ギ語・スプランクニゾマイ)とは「腸のちぎれるほどの思いになる」ことであり、同情を超えた共感・共苦です(参照「善きサマリア人」10:33,「放蕩息子の父」15:20)。主は母親の悲しみ痛む姿を自分のものとして深く憐れまれます。その時、主は十字架の後の母マリアの涙を思い起こしたのでしょうか。
「泣かなくともよい」とは「もう泣くな」ではなく、「泣き続けなくてもよい」の意です。復活の希望の約束はこの主イエスが来られた時に実現し、涙は笑いに(6:21)、死は復活に変えられます。大勢の人によって運ばれていく棺は母親の力では止める事のできない悲しみの行進です。しかし、主はこの棺に手を触れてこの動きを止め、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じました。「若者は起き上がってものを言った」とはこの復活が単なる肉体の復活に留まらず、交わりを持つ生きた存在として復活しました。主はこの存在を母親に返され、生きる希望を回復させ、復活の奇跡の業を起こされました。
「起きなさい」(ギ語・エゲイロウ)とは受身/命令系で「起こされよ」(直訳)です。この言葉はルカ福音書に三回、三日目の復活時に用いられます。三日目に墓に行った婦人たちに二人のみ使いが告げた言葉「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ(エゲイロウ)」(24:6)エマオの途上にて復活の主に出会った二人の弟子が十二弟子に告げた言葉「主は本当に復活した(エゲイロウ)」(24:34)です。「復活」とは、神によって「起こされる」「よみがえらされる」ことです。ナインの出来事は、このイエスがよみがえらせる生ける神の言葉を持ち、またこの女性の信仰や一人息子の何の背景もなしに、神の深い憐れみが人々の間に顕されたことを大胆に告げています。そうです。復活の主の力はただイエスの深い憐れみだけによって起こるのです。この出来事を見た弟子たちや大勢の群衆、また大勢の町の人はかつて神の人が預言者として現われたことを思い起こし、「偉大な預言者が我々の間に現れた」と告げ、またイエス誕生の際にザカリアが言った預言が成就したこと(1:68)を知って言うのでした。「神はその民を顧みてくださった」と言って神を崇めた。イエスについてのこの話はユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった。「この話」とは冠詞付きのロゴスです。「言(ロゴス)は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)この物語(ロゴス)は単なるうわさや奇跡ではなく、神の愛が人々の間で実現したというロゴス(ことば/福音)となっていきました。復活の主に会うその時、私たちの目の涙は止められ、主の憐れみが私たちを唯々生かすのです。「起こされよ」という言葉は、今私たちの胸の内に響きます。(引用聖句は聖書協会共同訳です)